市馬・喬太郎二人会

トリイホールへ。
そりゃ頭ではわかっていたけれど、演出をも噺家自身が担うというのはこういうことなんだなと思った。転失気は転失気だが、喬太郎さんの転失気・・・というか、転失気が喬太郎さんの中を通るとこんなになる・・・というか、言葉にすればするほどこんがらがっていくけども、要するに「ならでは」の転失気で、たくさん笑った。時の勢いもそこかしこに見え隠れするけれど、それだけで笑わせるのとも違う。
それとは別に、「噺家vs今目の前にいる客」みたいな感じもあって、なんかほんとうに、なまものだなーと思った。きっとどんな噺家さんでもそういうところはあるのだろうけれど、喬太郎さんは、時々、それが顕著に出る。わかりやすいと言うのがいいかもしれない。それも好きなところ。

「おめぇとこうやって手ぇ握り合ってぇいるとな・・、なんか妙なこころもちに・・・」
市馬さんのまくら、先代正蔵や前の池袋演芸場の思い出話でちょっとめろめろになる。なんでこういう話に弱いのだろう。愛をもって語られるから?ところどころに入る正蔵さんの口真似は妙に楽しく、池袋にあったドデカイ冷房の話でほろほろに(?)なったところで青菜。
すこぶる涼しかった。この日は暑かったので、その涼しさがことのほか嬉しかった。後半は植木屋さんと熊さんのやりとりのテンポがいいのでスカッと笑えて・・・ご馳走だ。

もう一席は山号寺号。屈託なくて好きだなーと思った。転失気のマクラで失恋魔術師を歌った喬太郎さんに負けず、東海林太郎を歌う市馬さん。その楽しそうな様子につられ、こっちまでうきうきと手拍子してしまう。隣の女のひとは一緒になって歌っていた。ようよう。

そして、まくらなしで始まった最後の一席は、「も、もしや、お峰殺し!」
話の中へひっぱりこむ力が、すごいなと思った。たとえば最後の、伴蔵がお峰の背後へ忍び歩きしてゆくところ、目に見えるようというよりは、その場へ、川っぺりの、芦かなんかが風にざわざわ揺れている中へ、ひっぱりこまれる感じなのだ。そのざわざわを肌に感じるというか。

なのに、終わったあとには、まだまだ・・・と思う。まだまだこんなもんじゃないでしょうと思う。言葉にできるような根拠は何もなく。そして、それが自分にとっての喬太郎さんの魅力なのだと思う。わかった。ここまで。と思ったら、こうまでクセにはならない。