三越落語会

樋口さんの個展のついでにどこかに行けないかと探していたら、橘蓮二さん企画の会があったので、出かける。三越落語会に「〜當世良写落語家〜いまどきのうつりのよいはなしか」というサブタイトルがついている。
橘さんの写真は好きだ。温かみがある・・・というと、やすく聞こえていやなのだが、今は他に言葉が浮かばない。芸の上での悲しいことや辛いことを、たくさんみてきた人なのだろうと思う。あくまでも想像。
三越は久しぶりだった。清治さんの「芸・話・人」以来だから、ずい分になる。
どんな噺かは知らないのに喬太郎さんと宮戸川との組み合わせはよきものとして刷り込まれていて、プログラムをみたとき、嬉しさのあまり椅子から10センチぐらい飛び上がりそうになった。「宮戸川ですよ〜〜!!」と、さっきまで一緒だった友人がまだいたら、飛びかかって訴えただろう。

ノアール。
稲光に照らされて、ぼうっと浮かび上がるお花の足と襦袢。その白と緋色とを際立たせる漆黒の闇。
そして、後半の船頭の問わず語り。語られる話の黒さ暗さに、鬱々とし、憤る。今、自分は落語を聴いているのだということを忘れそうになる。
それほどに、喬太郎さんの作り出す闇は濃い。

全篇及第点とかいうことには、興味がない。
そんなふうにどこか一ヵ所でもずば抜けたところがあって、胸の中から消えない何か、ほんとうをうつす鏡のようなものを垣間見ることができれば、それでよい。ワタシはそれこそを求める。落語にかぎらず舞台というもの、それを見たさにでかけるようなものだから。
そして、自分にとって、今、その機会を1番多く与えてくれそうに思えるのが喬太郎さんや小三治さんの高座であるということだ。
って、またまた誰に言い訳してるんだか。

それはそうと、志の輔さんを初めて聴く。
計算され尽くした高座・・・というと嫌味な感じがするけれど、そうでなくて、考え抜かれたといえばいいのだろうか。志の輔さんも談春さんも、師匠の思想みたいなものをちゃんと体現してるなぁと思う。考えてみればすごい師弟だ・・・。

一之輔 「鈴ヶ森」
百栄  「天使と悪魔」
喬太郎 「宮戸川
白鳥  「悲しみは日本海へ向けて」
志の輔 「バールのようなもの