美術展ふたつ。

ワンシーズンに1日行くか行かないかなのに、冬の京都はいつも雪だ。でもここ2・3日の2月に不似合いな暖かさに辟易してたので、四条大橋をわたりながらむこうに雪をかぶった山が見えたとき、ちょっと嬉しいような気分になった。

岡崎へ「椿昇 2004–2009: GOLD/WHITE/BLACK」を観に行く。
なんでしょうなぁ・・・。
観た後に、胃の上部をぐーっと押さえ込まれたような感触があった。不快感・・・なのだろうか。作品に対するものではなくて、作品が示唆しようとしているものに対する。それは、目をむけずにすむのなら見ずにいたいもの、だ。甘いといわれても仕方ない。

帰りに国立国際美術館の「アヴァンギャルド・チャイナ」へ寄った。
中国に生まれ、生きるというのは、こういうことなのかと思った。それは極端すぎる印象だとしても、生きている社会の、なんと違うことよ。
昔の日本でも、こういう風に表現せずにいられない社会に似たものはあったかもしれないけれど、現在ではない。それらの作品が、自分と同世代の作家によって作られたものだということに私はつまずく。
が、楊 振中(ヤン・ジェンジョン)のビデオアートなどは、違う社会の匂いがしないのだった。当たり前だが、何ごとも十把一からげにはできない。そうそうコトは単純ではない。

展示はB2へも続き、3点展示されているうちのひとつが、孫原(スン ファン)・彭禹(ポン・ユゥ)の「老人ホーム」。

精巧に作られた老人の人形が、車椅子に乗せられて、動き回っている。アラブ人やユダヤ人、いろいろだが、アジア人はいない模様。そのことに意味が在るのかないのかはわからない。
うつろな表情のひとがいる。祖母も最後はあんな目をしていた。そう思ったせいか、ぐるぐると動き回る老人たちから目が離せなくなった。私が或る日訪れた老人ホームもこんな感じだった。埋めがたい距離を感じながら、ただ、みているだけしかできない。本当によく似ている。いつかみた光景。

家に帰ると、中国でのCCTVビルの火災は、自前であげた花火が原因だったとのニュースが。
ネット上のインタビューで椿昇さんが薦めていた「行動主義―レム・コールハースドキュメント」という本を最近読んだのだが、それはCCTVビル建設のプロジェクトを始動させたころのコールハースを追いかけたものだったのだ。あれが燃えたんやねぇ・・・と他人事ながら脱力。