末廣亭 6月下席

今のところ、寄席との蜜月はまだ続いている。いる間中、色物さんも含めて一つ一つの高座全部を楽しんでいる。多くの笑いは、その場限りで消えてなくなってしまうものだけど(それが悪いとも思わないけど)、そうではないものもある。ほかでは聴けない類のなにかがあって、心に跡をつけていくようだ。

たとえば、小満んさんの「笠碁」。その日は小三治さんの代演で、客の少なさにがっかりした顔で出てきて「今日は敗戦処理です」と言っていたが(思わず吹き出してしまった!)、幼馴染の爺ふたりの爺らしい子供っぽさや「でも、アイツも碁も好きなんだよう」みたいなところを丁寧に出しながら、ちゃんと雨まで降っていて、敗戦処理どころかとても贅沢な時間を提供していたのだった。そういえば、小満んさんでトリネタのようなのを聴くのは初めてだったかもしれない。

それから、花緑さんの力技。なんでもないところで代演で出て「祇園祭」をやって、ごごごーっとさらっていっていた。その実力をはじめてみた思い。

そして、扇橋さんの「茄子娘」だ。蚊帳の中からみる世界やそこに放った蛍のこと、ぽっぽっと描写される光景が嫋々としていて、いいなぁと思っているうちに気がつけば自然に浮世離れした世界にいる。それとサゲとの落差がたまらん・・・。
そして、やっぱり扇橋さんといえば小三治さんで、なんなのだろう、あのにこいち感は。
しょっちゅうまくらで互いのことをしゃべりあっていて、それがまたおもしろいので、こんなふうに出番が近いときは、それまでもを楽しみにする。

小三治は、落語だけじゃなくて、いろいろ、そのまえかたにしゃべるのが結構おもしろい。これが本当の落語なんでしょうねぇ」
「落語だからおかしいのかと思えば、別におかしいこともなくて、ときどきかなしい噺をする」

これは、聞きながら「ああ、もしかして、今、核心に近いことを話しているのではないだろうか!」という気がした。こうして文字にすると、どこが??という感じなのだけれど、実際、あの場で、あの調子で、扇橋さんの口から出たときには、そんなふうに聞こえたのだ。何度も反芻したくなるくらいに。

でも、ある日には出の前に小三治さんに「しっかりやれよ」と声をかけられて、「え?みっちり?」と聞き返していたそうだ。「お前にみっちりやられたらたまらねぇよ!って言ったんですよ」と、小三治さんが話していた、そのやりとりを思うだけで笑ってしまう。扇橋さんのみっちりってどんななのだろう?

そして今席の小三治さんは、なんというか、温かかった。芸の高みにのぼりながらも、ちゃんと客のほうをむいているというか。それは両立できることなのだなぁ。噺にはまじりっけがなく、聴くほうはどこまでもその中へ入ってゆける。そのせいか「馬の田楽」はなんだか切なくて、そういう噺だったのか・・・と思った。

「天災」をかけた日の、「ここは9時までなんですがね」と言った後の、「すみませんが、今日、終わりませんからね」のかっこよさ、それから始まった噺はすみずみまで冴えていて、なんだかすごかった。さげのあと、立ち上がって拍手をしているひとがいたけれど、私の中にそういう文化はないので倣いはしなかったけれど、その気持ちはわかるような気がした。小三治さんがあまりにもたくさんのものをくれたのでなにかを返したい、でもなにがあるはずもないからせめて心からの拍手をと思ったから。それくらい、たくさんのもので満ちていた。

小屋があり、客がいて、延々と続く番組がある。全てが要素であり、連鎖し、作用して、その高座が生まれる。その繰り返しの果てにトリ。小さい流れと大きいうねり。寄席で聴く楽しさは、結局そこへたどり着くのだろうと思う。

楽日の夜は去り難い。末廣亭ともしばしお別れ。