二人禿・彦山・壺坂

羽子板をつくのは、ついているようにみせるのは、とてもむつかしい。鞠をつくよりむつかしいと思う。羽子板の位置や目の位置や、それは枝葉末節なのかもしれないけれど、廓らしさや正月らしさはそういうことの丁寧な積み重ねから出てくるものだと思うのだ。もう誰も実際の廓なんか知らないから、余計に。そして、二人禿から廓らしさや正月らしさをとったら、ほとんど何も残らないような気がする。

彦山は、おもしろかった。このごろの勘十郎さんは、時代物を遣ってはるときのほうが好きだ。型にぐいぐいはめていくぐらいの感じがちょうどいいと思う。文字久さんは、少し感じが変わったなぁと思った。何かを越えたのかもしれない。越えなかったかもしれない。

壺坂そのものは好きではないが、沢市内の弾きだしから「おお、お里か」までのところは、無性に好きだ。音曲として好き。清治さんの弾きだしに、弥七さんお師匠さんの匂いがして切なくなる。
切ないと言えば、義太夫節の三味線弾きの本当の凄さは、三味線弾きひとりでは引き出すことができないのも切ない。でも、それはお互いさまだし、違う種類の凄さを楽しみにすればいいのだ・・・と、この頃やっと思えるようになった。成長・・・したのか?

珍しく2日連続で日本橋へ行ったので、連日のプルミエール通い。さすがに2日めは躊躇しつつも、やっぱりケーキを食べる。ほとんどのケーキが売切れてしまっていて選択の余地がないほどなのに、食べる。繁盛しているようで、なんだか嬉しかった。