文楽初め

伽羅先代萩をみる。
飯炊きの場という長丁場を一身に引き受ける紋寿さんと、ひとり若君を守る政岡がだぶって、じーんとした。厳密に言えば、ふたりともひとりきりではないのだけれど、誰にも真には理解されない孤独があるような気がする。政岡を遣うというのは、そういうことなのかなと思った。

そして、久しぶりに寛治さんの三味線を聴く。奥行きというか、懐の深さというか、正確な音とかそういうのはもうどうでもよくなる次元の、なんとも言えない音だった。なんかいいなぁ・・・。

古典というフィールドでは、芝居をやるのかそれとも芸を見せるのかという選択を、ないがしろにしてはいけないのだなぁと思った。そのまま今に持ってきて、通用する芝居としない芝居があると思うし(5年前に通用したからといって、今も通用するとは限らない)、通用しない芝居を手も入れずそのまま上演するならば、芝居としてはもう死んでいるのだから、芸をみせるしかない。
生きた芝居か、魅せる芸か。
私としては(そうでないひともいると思うが)、芸さえみせてもらえるなら、芝居として死に体でもちっともかまわない。でも、その中間は、ない。

先代萩をみながら、そんなことを考えた。これも今となっては(今のところは)、芸の力でみていられるのだなーと思い。