喬太郎のラクゴ新世界

「たいこ腹」
「喜劇駅前結社」
井戸の茶碗

喜劇駅前結社以外は聴きなれた噺だったこともあり、おなかを抱えて笑う・・・なんてこともなかったのだが、それにしたって、なんだか目が離せないよなぁ・・・と思いつつ聴いていた。
喬太郎さんの高座の底流には、哀しいといっても寂しいといっても違う感じがする、でもそれに似たものがあるような気がする。華がないとか暗いとかそういうことではないし、具体的な何かでもなくて、文字通り底に流れているものなのだけども、どんなに大笑いする噺のなかでも見え隠れしていて、不思議な余韻として残る。それは喬太郎さんが、生きていくことの哀しさや寂しさを知っているからではないだろうかと思ったりするけれど、そんなことはもちろん、私の想像にすぎない。
でも、その言葉にできないものが気になって、あるいはそれを言い表す言葉を探して、またふらふらと聴きに行ってしまうのだなぁ。
今はまだ、果てがないような気がするな。