秋の夜長

寿司屋で寿司屋水滸伝をきく・・・というのは、とても素敵なことのような気がしたので、玉寿司さんへでかける。が、結論をいうと、まぁ、ふつうだった。いつもと同じというか。それほどコトは単純ではないわな。
この日は、その寿司屋水滸伝をはさんで、まんじゅうこわい、お札はがしの3席。

今回はいつにも増して個人的な感想であります。

この日の、どちらかというと淡々とした高座(笑いが少なかったわけではない)をみていたら、このひとに対しては身銭を切るべしだなーと思った。
或いは、身銭を切るという表現は適切ではないのだろう。こんなふうにこの言葉を使うときに意識するのは、「銭」よりも「切る」ほうで、「公平であろうとする」ということだから。でも、なんとなくこの言葉が頭に浮かんだのだ。
ものごとは自分のなかにあるものを通してしかみることができない、もっと言うと、みたいようにしかみていないのではと思うことすらあるくらいだが、その、「自分」の割合をなるだけ減らして、出されたものは何でも喰らう。過大評価も過小評価もしない。
自分に関して言えば、喬太郎さんの高座は、そんなふうにみていくのがいいような気がした。

それとは別に。

たとえば、まんじゅうを食べるようすをまばたきも忘れてみてしまったのは、「いかにもまんじゅうを食べているように見えたから」ではなく、そのことがむこう側(?)への入り口のように思えたからだ。
きわめられた技術が素敵なのではなく、きわめる・もしくはきわめようとすることによって生まれるものが素敵だというか。私は、そういうものをみたり感じたりするのが、ほんとうに好きだ。
以前、友人に、「笑うためにお金を払うという選択肢は自分にはないなー」と言われたときに、では私は、笑うために落語を聴きに出かけているのだろうか??と自問したのだけれど、そうではないのだな。
ここではない、あちら。自分ではいけないところ。それがみたくて行く。泣きたいとか笑いたいとかの、感情に特化した欲求は、そこにはない。落語だけではなく、文楽でも歌舞伎でも同じ。前にも書いたけれど、今の自分にとってその機会が一番多いのが、小三治さんや喬太郎さんの高座であるというだけで。

その日の夜に、東京公演の沼津がとてもよかったというメールをもらった。
沼津!だ。
その言葉をちょっと意識して心に留めると、途端に「お米はひとり物思い・・・」とか「しんどが利になる」とか「お念仏をおっしゃってくださりませ」とか、住大夫さんの浄るりが様々に頭の中で流れ出し、玉男さんの十兵衛のすっとした立ち姿と、文吾さんの平作があらわれる。そして、胸の真ん中がきゅーっと苦しくなる。何年経ってもそうなのだ。

あれはそれくらい素敵だった。
そういう舞台を持つ私を、幸せだと思う。
今月の沼津も、そういうものなのかもしれないな、とも。

話はもどって喬太郎さんのお札はがし。あのカラン・コロンは、かわらず繊細で複雑で美しかった。いつの日かこの声を思い出すときには、また幸せを感じるのだろうか。

重陽の日に、呂大夫さんを偲びつつ。