私信。のようなもの。

Numero TOKYOに談春さんのインタビューが載っていて、これがなかなかおもしろかった。
“つまり今では「落語」じゃなくて「今日の俺」を見せられる人が売れているんだよ。”
なんて、うまいこと言うなぁと思う。そして、「典型」と「類型」の話も。ここは長いが引用する。

必死に努力すれば一流にはなれると思う。でも超一流ってのにはなれない。そこには厳然と差違がある。つまり、学べることで勝負できてるうちはラクなのよ。これだけ稽古しました、ほらうまいでしょと。そこで終われば確かに幸せ。だけどそれじゃ同業者が誰も憧れてくれない。学べないものを持っているほんの一握りの超一流の人たちに、我々は憧れるわけだから。で、そういう人たちこそが落語の新たなる「典型」を作るんだよね。他の人たちは全員「類型」として素晴らしいものを生み出すだけ。せめて俺も、類型としての超一流を目指そうとは思うけどね。Numero TOKYO3月号「男の利き手」より

以前、なぜに天才フェチなのかという話になったとき(そう、私は天才フェチだ)、天才はどうにもならない領域にいるからというふうなことを言ったような気がする。対して友人は、頑張ればああいう風になれると思える人がいい、物を教える身として、頑張ってもどうにもならないことがあるとは認めづらいという主旨の事を言ったのだと思う。解釈違いをしていなければ。

そのときは、それきりうまく説明できなかったのだけれど、談春さんのインタビューを読んで、そうそう、こういうことを言いたかったのだ私は。と思ったのだ。

学べることで勝負できているうちはラク、というのは本当だし、頑張ればああいう風になれると思えるような人は、射程距離に入れたくない。
って、なんの射程距離なんだかわからんが。

話は変わって。

2月の文楽公演も始まり、観に行く予定はないのだが、ゆうきちさんの観劇記を読んで俄然「敵討襤褸錦」に未練が出た。インモラルには興味はないが、インモラルな芝居を生み出す原動力となるものには興味がある。
でもなー、これにも行くとなー、勘当されますよ、もうそろそろ。なのであった。
ぐっと我慢。