狂乱の池袋

8月上席の池袋演芸場へ。今年もすごいのかなぁと思っていたらすごかった。行った何日間か、全部がそうだった。数でいうとそれほどでもないのだろうけど、何しろ狭いので通路という通路がひとで溢れかえっている。立見のひとは斜め立ち(正面で立つより省スペースだから)するよう促され、平日でも舞台と最前列の間にまでひとがいる。これでは芋の子だって洗えないと思う。ある種の感覚は遮断するというか麻痺させないととても座っていられない。
さん喬さんが「そんなふうにして落語を聴いて楽しいですか?」と言っていたけれど、どうなのだろう?自分は「そんなふうにして」は聴きたくないから早めに来て並んだりするのだけれど、それも根元は同じだろうし、そういうのが「落語の気分」からは遠いことなのだというのはわかるので、なんとなく居心地が悪い。おまけに小三治さんが出てきたときの狂騒にも、なかなか慣れない。「待ってました!」の声がたくさんかかるのは楽しいけれど、ところどころ「お前がただ大きい声を出して騒ぎたいだけだろ!」とツッコミたくなるようなのがまじっていて、師登場のワクワクに水をかけられたような気持ちになる。ここは宴会場か〜〜!!

が、そんなこんなも、小三治ぐすりをかがされるとどこかへいってしまう。ここにくればコレがあると知っているのに、どうしてやめることができるだろう!と思う。小三治さんを聴きたいと思うのは今の自分だから、この狂乱がおさまるのを待って・・・なんていうのもナシだ。

今さら言うのもなんだが、噺し方はもちろん、まくらも好きだ。甲乙付け難い好きさだ。内容はなんてことない、目覚ましが壊れたとか気候の話とかなのだけど、主題がおもしろい。主題は小三治さんが捉えた世界だ。些細なことも政治のことも、小三治さんの眼を通して語られる、それを聴くのが楽しいからなおさらライブでなくてはと思ってしまう。たまに一般論が大勢を占める日があるけれど、そういうときは、ああ今日は気がのらないのかなーと思ってほほえましく聴く。人間だもの。

この月は「湯屋番」が聴けたのが嬉しかった。若旦那の能天気ぶりと折々の仕草がめちゃめちゃかわいいのと。そういうとき、小三治さんというおじいさんと若旦那とのギャップはどこへいくのだろう?まくらで国政と落語協会運営に共通する「変えていくことの難しさ」について「誰もこんな話聞きたくないよ!」と茶化しながら、でも難しい顔で話していたので、能天気さがひと際映えたような気がする。
「あちらをなだめ、こちらをなだめしながら、すこしっつすこしっつ変えていくしかない。」
気の遠くなるような道なのだろうなぁ。でも行くしかないと。

寄席で聴いているといろんなひとがいろんなところで笑って、本当にひとそれぞれだなと思う。そういう自分は小里んさんの「赤ベロベロ」と「十二か月」の唄がツボにハマって、ひとりで笑いこけていた。理屈でおかしいのと違い音でおかしいのって、腹の底から笑いがこみ上げてくるからたまらないのだ。「棒鱈」を聴いたことがなくて免疫がなかったのと、田舎侍になって真面目な顔で唄う小里んさんの姿がすごかった(?)のと両方で。
それから喜多八さんの「あくび指南」。八五郎は揺れるというよりリズムを刻むという感じで、彼がリズムを刻みだすと客はもうそれにのせられて笑わずにいられない。波は何度もやってきてそのたびに客席は大揺れする。本当によくうけていた。

朝から並んで草臥れてもう帰ろうと思いつつ、夜の部が楽しそうでなかなか出ることができない。そうやって池袋の夜は更けていくのです・・・。