浅草 5月上席

ゴールデンウィーク終盤の浅草は、のんびりしているというか気だるいというか、味わったことのない独特の雰囲気だった。もう少し居続けたら、脳みそが溶けてしまったかもしれない。
でもGW興行なだけあって、とても豪華だった。昼トリの代演がさん喬さんの日もあったしなー。ひろしさんが足をケガしたとかで順子さんが1人で出ていて、後半、前座さんを相手に踊っているのを見ていたら、なんだかその前座さんが羨ましくなった。羨ましがってどーすんだという感じだが、でもほんとうに得がたい経験だと思うから。

小三治さんは、まるで酔っ払いのような客のちゃちゃいれを、「なんか今日はやりにくいな〜〜」と笑い飛ばしながら長屋の花見。こういう、目鼻らしい目鼻のない、エンエンとどこまでもゆけそうな噺が好きだ。扇橋さんか小三治さんで聴けたら上等。ボソボソと、淡々と、でもおかしい。ところどころで吹き出してしまう。
ただ、それまでもずっと長屋の花見をかけていたというのはネットでながれて知っていたので、半分はそうやって吹き出しつつ、もう半分は、小三治さんは一体何に挑んでいるんだろう・・・と思っていた。

別の日は、「どうしてこんな話になったんだろう」と、「まぁ、いいか」と、「何しろ今日は蒸し暑いから」の間を、行ったりきたりしながらのマクラ。
二ツ目になるときに骨相見にみてもらって、噺家にはなれない、文筆家か室内装飾関係にと言われたけれど、ものを書くことは昔から苦手だったし、装飾ったって私の部屋はひどいものなんだ、で、結局さん治という名前を考えてもらった(さん尚という名前も出たけれど、その頃三遊亭さん生っていう、読み方が同じのひとがいたから・・・で、「ラ・マラゲーニャ」を一瞬歌った!)、真打になるときに本当は別にほしい名前があったetc・・・。
それぞれの話の間を行ったりきたり、つながっているようないないような、でもなんだろう、小三治さんのこれまでを浚ったような気がして、ちょっとじんとした。
「師匠にお前は小三治だと言われて、何も言えなかった。どうしてですかってことも聞けなかった。威厳がありましたから」
言葉のあいだに、火鉢をはさんでむかいあった師匠と弟子の姿がたち現れる。小三治さんにとっての節目のひとコマなのだなぁと思った。

それから、どうしてずっと長屋の花見なのかという話になった。はじめは、「意地をはっている」といい、それから、「自分への挑戦」だといった。
「なぞる気持ちでやっていたら、同じ噺なんてとてもできない。いつも新しい発見はないかと思ってやっている」
そうか、自分に挑んでいたのか。
楽日まで見届けたかったなぁと思った。小三治さんがそういう気持ちで臨む高座を、こちらもぴんぴんに尖らせながら聴いてみたかった。

「でも、さすがに飽きるんです!」
そういって、持ち時間の残りがあと1分ぐらいだから、今日は1分だけやるとはじめたところも、
「10分経ちました!」
といって唐突に噺をやめたところも、人間くさくて笑ってしまった。小三治さんも人の子というか。
こういうのを、あばたもエクボというのかな。
だとしてもいいのだ、あばたもエクボになれば上等。